あさが来たのヒットも当然
朝の連続テレビ小説を毎朝会社に行く前にみている。
私は現在29歳で、これから人生の色んな場面を通過してゆく訳だけれど
主人公のあさと同じように、男みたいだと言われたり(食べっぷりとかだけれども)、一時期はあさのように仕事で新しい事業にチャレンジしようと試みていたこともあったり、これからで言えばきっと子どもを産んで子育てに悩んだりもするのだろうなと思う訳です。
あさが立ち向かっていく局面を自分の人生と重ねて、自分ごとのように共感してみているので、ついつい応援したくなる。それが人気の秘訣ですよね、まさに。
それにしても、舞台となっている時代背景、幕末〜明治〜大正時代と、
現代との間であまりにも女性の地位等が変わらなすぎて愕然とする。
だって100年以上も経っているのに。仕事と子育ての両立に悩む姿など、この100年間でずっと個人の問題のまま。
役員比率や国会議員の比率などの客観的指標から男女平等をはかったときに、
世界的に日本は不動の100何位とかいう事態のありえなさに、
おかしい状態なんですよってことに、
もっとみんなでリアリティを感じていった方が良いよね。
早くスウェーデンとかオランダみたいな制度を取り入れてほしいわ。
という訳で、そう思っているようなたくさんの女性からのあさへの頑張れエールで、あさが来たは大成功していると思います。
2016 年初め
年の区切りというものは、人が勝手に作った概念であって
大きな目で見ると とくに生活しているなかで何か変化がある訳でもない。
先日も、年末に義祖母の生活施設へお邪魔する機会があり、
おばあちゃんとお話をしたのだが
「今日は12月31日ですよ」と呼びかける義母に対し、
「あぁっ、そうかい~」と目を丸くしていた様子が印象的であった。
こりゃ、たまげたな。 という様子である。
わたしも一応サラリーマンとして仕事をしているために
年末年始の長期休暇をありがたいものだと思い
パートナーの実家に帰ったり、実家に帰ったりと、
日本の年末年始の風情を一身に受けながら
その束の間の、「お正月だからいいや」という甘えのもと
自分を律することを放棄し
やらなきゃいけないことも精一杯、両手で前へ前へと押しやったり
食べたいだけ食べたり、ぐうたらしたいだけぐうたらして過ごした。
過ごしたものの、特に節目だから何かを省みたり次の目標を持てていないままである。
世間一般で昔から決めてきたこの節目。
この節目に従って、めんどうくさいけど何か考えてみようかね。
トピック「ブログ初め2016」について
アンティーク化
音楽は、思い出の玉ねぎの皮が、時を経るごとに1枚、1枚と、重なっていく。
最初に聞いたときが一皮目。
聞くたびにどんどん層が厚くなる。
その音楽を好きすぎて、気に入り過ぎて、何回も聞いて その層はくっつき、個体となり、他の玉ねぎに移っていく。
だけど、時を経るごとにたまにかつての玉ねぎを手に取ると、その個体にさらなる層ができることに気がつく。
そうやって、時が経って、転がし、放置し、また聞いて、と繰り返していくと、いつまで経ってもその音楽は飽きない。
どんどん「アンティーク」になっていくのだ。好きな音楽はいつまでも大切で、丁寧に、宝物として付き合っていくことができる。
気づき(営業)
人と人との関係性は、とても単純な部分も潜んでる。
例えば、自分のためにこうしてくれた、と、相手が 自分のことを思って丁寧に接してくれたと思うと嬉しいもの。私も嬉しい。
今までは、照れるので、こうしてあげたいという思いがでてきても、一周めぐって結局何もしなかったり、わざと知らんぷりをすることが多かった。(とは言え気づかないことも多いけど。)
でも、相手のためにこうしたいなと軽くでも気づいたことは、どんどん発言したり実行できるようになりたい。
だって、それで相手も自分もハッピーになれれば、それがいいじゃない。
玉ねぎの層(思いで)
最近、また、ちょくちょく友達に会う機会が増えた。
時を経て、違う場所で、友達は友達の人生を生きているのだけど、何年か前にともに過ごした濃い時間があるから、いつ話しても、先週会っていたかの様な、そんなふうになる。
思い出っていうのは、玉ねぎの皮のように、時を経るごとにどんどん層が厚くなって、ますます愛しいものになるのだろうな。
定食屋
そこはひらけた町だった。
郊外の何もないような土地だ。
だけれども、とある私立大学のいくつかあるキャンパスのうちの一つがこの駅にあるため、そのおかげで必要十分なものが用意されたというところだ。
駅構内には、本屋がひとつ。
わりとこじんまりしつつも、クリーンな印象の駅を降りると、改札口手前には柿の葉鮨の有名チェーンが横目に見える。
駅前には、学生街らしく飲み屋が点在している。
関西の学生街には養老の瀧であったり、一休であったりのチェーン店がマストらしく、さらに餃子の王将がその色濃さを塗り足している。
けれど、よくある東京のごちゃりとした学生街の雰囲気とはまた違う。
東京の下町のような商店街なんてものもない。
どんなシチュエーションで買いに行くのかが今いちわからない、アイスなどがパッケージで売られているシャトレーゼなんかもある。
突如出来たというニュータウンのような雰囲気の新品さから、少しずつ馴染んできたという具合だ。
駐車場完備のだだっ広い関西有名チェーンのドラッグストアがあり、車道には木が植えられている。
その通り道に、和食レストラン、学生がゆさゆさ乗るバス停、小さなショッピング施設が併設されたスーパー、見渡せば線路と田んぼが広がる歩道橋、パンク修理で頼りになる自転車屋さん。
そのようなものがある。
その通りの一つに、一軒の定食屋さんがあった。
そこには、キッチンの見えるカウンターと、テーブル席が3つくらいが置かれている。気持ちのいい天気の日には、光が差し込み、テーブルはピカピカとしていて全てがきちんとしてみえる。
そこには、おかみさんがいる。
おかみさんというほどのおばさんではないが、背は小さく、肌の白くて華奢な身体つきをしている。
黒髪のショートで、前髪を斜めに流している。赤い口紅が似合う、キリッとしたどちらかといえば美人な印象の人だ。
声は低め、真の強そうなところと、
男の人であれば守ってあげたくなるような弱々しさやチャーミングさを兼ね備えている。
瞳は、上京して間もない。
手っ取り早く、野菜とご飯を含むきちんとした食事がとりたいと思っていた。
何度かその定食屋に行く度に、人の作ってくれた味噌汁はいいなあと、しみじみ感じる。お店の人と顔見知りになってカウンター越しに話をするのに憧れていた。
ある日、その定食屋にアルバイト募集の貼紙があった。瞳は、自分にやらせてほしいと申し出た。
おかみさんは、ありがたいと言い、少し言葉を濁らせた。
瞳は、具体的に何かを言われた訳ではないけれど、しばらく日が経つうちに、自分は求められていないことを悟った。
紹介されたのは、塾のアルバイトだった。
そこは駅近くの個人塾で、おかみさんの知り合いらしい塾講師と、向かい合って座った。おかみさんは、私が在学中であること、学部などを一通り説明し、席を外した。
「無」の時間
一昨日は始業日
年始挨拶の次いでに、会社の人々と日枝神社へ御参りに行った。
地元の小さな空いている神社に初詣するのが好きだけど、
こういう大きいところはところで
なんだかおめでたい感じかする。
御賽銭入れるところの鐘が横に一列、
10こ以上さがっていた。
パワーが分散されるのか?
はたまた、大勢で押し寄せて鐘ならすまでもなく、天は常に大忙しだろうか…
今年に入って、朝早く起きるようになった。
1時間近く早く起きることで、
準備はゆっくりでき、少なくとも30分はフリータイムが生まれる。
その中の時間で本を読んでいる。
音楽もかけない、朝のひっそりとした
集中力の密度の濃い、静かな時間が好きだ。
よる39度のお湯に静かに
ゆ〜っくりつかる、
これまた
“無”の中も好き。
何も考えなくていい、空っぽの時間を取る。こうしてリラックスな状態となっていることに気づいた。
グラデーションの世界
グラデーションの世界。
その時、その時の瞬間におこる、
匂い、思い、感じ方、体感温度、
心臓の速さ、たかなり、心臓の温度、
手から汗が湧き出る感触、
心の広がり、伸びやかさ、
思考の圧迫感、
笑いが引き起こされる時の熱くなる感じとか
その
ひとつひとつの
その全ての時と感覚を大切に。
この
あっというまの出来事の
グラデーションのように